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バルトの哲学は記号学と構造主義から始まり、私たちのあらゆるものを論理的に把握しようとした。だが、「作家の死」以降には方向を変え、そして最後には論理では解消しきれないほどの母への愛を文章として書きだしていたのだ。「感情の表出に意味はあるのか?」は文章上では感情を否定しているが、その一方で何か隠しきれないような「感情」が音や映像など、その背景に無数に隠れている。そして、それらの漏れ出している感情はきっと、何等かの形で私たちを直接的に抉り取るものではないだろうか。
作詞:ukiyojingu
作曲:ukiyojingu
私たちが自由を手に入れてから、どれだけの月日が流れただろうか。 私たちは、どこまで可能性を持てるのだろうか。 私たちの限界はどこだろうか。 そして、その先には何があるのだろうか。 言葉を扱う私たちは言葉を扱うがために、常に言葉の限界を超えられない。 記号が所詮、記号以上の意味を持ちえないからだ。 私たちが愛して止まない言葉たちはその実、記号でしかなく、機械的に処理されるものである。 だからこそ、私たちはそれから自由になるため、記号に感情を載せようとする。 その多様な表現史が、人間の感情を作り上げてきたのだろう。 だが、全てが不確実なこの時代で、何が感情となりうるだろうか。 感情は、在り得るのだろうか。 その問いかけは、許されない。 私たちは誰しもが、不本意ながらも共通した感情を持っていると信じている。 それによって、私たちはあたかも同じ「人類」であると思えている。 そこから先の自由は保障されず、全員が同じ顔を持った他人と認識され、扇動される。 そうして、自由を失っている。 私たちは、誰しもが感情を持っているように、朝日に感動し、夕日に憂いている。 明日の訪れを神に祈るように、緩やかな繋がりを求めている。 しかし、私たちは感情の全てを把握することは誰にもできない。 誰によっても、そして誰とも共感することができず、そして許されない。 本当は、誰しもが疎外を受けており、孤独なのだろう。 その中で、感情的な表現は本質的に無意味だ。 全ての音の重なり合いは無感情であり、その瓦礫の上には、崇高な論理のみが立ち上がる。 だからこそ、言葉は私たちにとっての唯一無二の救済手段である。 それ以外の全ては許容されない。 私たちは、何者からも自由になれない。
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