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「崇高」とは、私たちの抑圧を超えて噴出する快楽である。カントは崇高を「数学的崇高」と「自然的崇高」の二種類に分けたが 、それらのいずれもが美的なものの絶対性を肯定する主張として受け入れられている。崇高はそれ自体が誰にとっても共通しており、いわばここまでの議論で登場してきた構造主義的な議論——あらゆる構造に分解することで世界を論じようとした点で——と「普遍性」を認める点で、共通項もある。このような世界の普遍性、一般性を前提とする議論はモダニズムと称されるものだが、1970年代以降、構造主義への批判とともにモダニズムの時代の終焉を唱えるポストモダンの時代の到来が宣言された 。それにより、私たちはある種の絶対的な価値判断を失い、各々が自分の好みの解釈をし、そしてそれ以外の自由な解釈の一切を受け入れないような時代が、少しずつ到来した。フィルター・バブルを通した私たちが動物的にコンテンツを消費する過程が進行することで、私たちは自分の好きなもの以外は認めないといったことが次第に表面化してきている時代になっているといえるだろう。この問題は今日「ポストトゥルース」と称される問題に通ずるところがある 。
作詞:ukiyojingu
作曲:ukiyojingu
大阪の交差点上で、聞いたことのない音楽を聴いた。 とても奇妙で、私には崇高なものに思えた。 だから私は、その崇高をこの曲にし、盗作する。 自らの意図をもって、崇高と大阪の交差点を盗作している。 夜景に崇高さを感じるのはどうしてだろうか。 夜は愚衆を溶かし、曖昧な集団への帰属意識を向上させる。 誰もが崇高を肯定し、模倣することで慰めあう。 愛されもしない愚衆たちは、すでに言語への意志を喪失している。 それでも私たちは、手短な崇高を求める。 集合化された崇高はテンプレートとなり、私たちを連帯させる。 そうして、私たちは崇高に縛られて、互いを理解する。 そうして、私たちは再生産されていく。 それこそ、才能もない私たちの崇高である。 それこそ、私たちの唯一の手段たる盗作である。 己の欲望のまま文字を盗み、解釈し、都市に流し込む。 その姿勢こそ、私たちの盗作された崇高ではないだろうか。 盗作された崇高が夜と溶けている。 私たちはそれを敬い、それ以外のすべてを排除する。 それはまるで無意識下で進行する検閲であり、異端者を排除している。 その中で、個人は場所を見失っている。 盗作された崇高が夜と溶けている。 最大多数の最大幸福こそが、私たちの愛おしい崇高だ。 その盗作によって、私たちはさらに高尚な存在になるのだ。 それで、その先は何があるんだ? 大阪の交差点上で、私の愛する音楽を聴いている。 それはとても崇高であり、私の傷をなめるように侵食する。 その曲を盗作する様相は、まさしく崇高とは程遠い行為だろう。 だから私は、その崇高を盗作している。 自らの意図をもって、崇高と大阪の交差点を盗作している。
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